ここ数週間のひそかなマイブームがあります。
少しずつ、正信偈を覚えています。
まだまだ覚えるというより、意味を学んでいるところです。
意味を理解しないと、覚えることさえできない性格なのです。
うちは父の家も母の家も浄土真宗なので、母方の祖母が亡くなった頃から、法事の際に毎回お坊さんが正信偈の冊子を配ってくれて、その場だけ一緒に勤行するのですが、なかなか初見ではさらっと唄えないので(正信偈は、お経ではなく、偈(うた)です)、ずっと練習しておきたいと常々思っていました。
今月行われる祖母の23回忌までには、「中夏日域之高僧」まではなんとか覚えたいなあと、がんばっています。
正信偈の始まりは、「帰命無量壽如来」です。
「限りなき阿弥陀如来に帰命しました」という意味です。
「帰命」は「南無」と同じ意味で、古来のインドの言葉である「南無」の古来中国語訳が「帰命」で、どちらも「帰依する」という意味だそうです。
「帰依する」などと訳しても、現代人の僕には、もうひとつ心で直観的に理解できません。
韓国戸籍の翻訳者である僕の、翻訳者としての「現代日本語への再現力」を使って現代日本語に訳出するなら「心の依りどころとする」というのが、「帰命」の素直な訳だと思います。
もっと深く訳出するなら、「自分自身の存在全ての依りどころとする」というのが、もっとあたっているでしょう。
浄土真宗には、「南無阿弥陀仏」つまり「阿弥陀如来を自分自身の存在全ての依りどころとする」と唱えただけで、”無条件で”救われるという、世界に唯一無二の高い教義が存在するのです。
僕の毎日の仕事であり、暮らしの全てである「帰化」と、「帰命」は、言葉の響きが似ていると思いませんか?
似ていると言うのではなく、同じものだと、僕は考えています。
「帰化」の言葉の意味は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」とされます。
もっと実務的には、「自らの心身を、その国の礼・法の秩序に帰属させる」ことです。
でも、現代日本語翻訳者のプライドにかけて訳出すれば、「帰命」と同様に、「帰化」も「自分自身の存在全ての依りどころとする」としてよいと考えます。
つまり、「日本に帰化する」とは、「日本を自分自身の存在全ての依りどころとする」と言う事です。
その国の国民である、と言う事は、そういう事です。
市民はたとえ心が自由人であっても、社会にあらがって一人で生きるわけにはいきません。
その国の国家や社会と強調し、国家や社会に助けられ、自分も参加し、同一体となって、国自体も自分自身も、向上させていく「宿命」を持つのです。
僕の毎日の仕事であり、暮らしの全てである「帰化申請」は、確かに、日本の国籍を取得するための申請ですが、「日本国籍取得申請」とは決して言いません。
日本人にとって、憲法の次に大事な国籍法の第四条に
・日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる。
・2 帰化をするには、法務大臣の許可を得なければならない。
と決められているからです。
どこにも、「国籍取得申請」により、日本の国籍を取得する事ができる、とは書かれていません。
外国人の方は「帰化によって」日本の国籍を取得する事ができるわけで、「帰化によらなければ」日本の国籍を取得する事はできません。
国籍法には、明確に「日本を自分自身の存在全ての依りどころとする」事ではじめて、日本国籍を取得する事ができる、と定められているのです。
帰命日本国です。
南無日本国です。
日本人にとって日本国は、自分自身と同じくらい大事なものです。
いえ、同じくらい、というのは違います。
日本人にとって日本は、自分自身そのものです。
自由人でいる事もアイデンティティーの上で非常に大事な事ですが、「日本を自分自身の存在全ての依りどころとして」、社会の恩恵・加護を理解した中で、周りの人々との協調・信頼関係の範囲内で、心の自由を保障されるのだということを常に理解していないといけません。
もちろん、日本への帰化申請を業として扱う者は、日本に帰命していなければ、帰化申請自体が、本当の意味でうまくいくはずがありません。
たとえ、帰化申請が許可になったとしても、それは、帰命できていない、心の不幸な日本人を作るだけの単なる悲しい作務です。
申請者も、帰化できていなければ、日本人となった後も、一生寂しい気持ちから、救われないかもしれません。
現実には、お客さんとそのような堅苦しい話は一切することはありませんが、僕自身の中では、依頼者に、本当の意味で帰化されて、一生、楽しく、明るく、愉快な日本人としての人生を送っていただけるよう、様々な点で配慮しております。
ところで、正信偈も覚えないといけないのですが、今週末、それぞれ別のバンドで、「Hey Bulldog!」と「Black Night(これはもともとほとんど覚えてる)」を歌えるように覚えないといけない娑婆さが、我ながら因業深いところです。
正信偈と、歌詞を、同じレベルで考えてたら、親鸞聖人にしかられるでしょうか。