茶道の歴史
first created August 12,2003;last updated August 12,2003

茶道の歴史
 当スクールの茶道は裏千家です。
 お稽古をはじめようかと考えておられる方にとって、さまざまな修道において「どの流派を選んだらよいのか。」というのは、見当をつけがたい事かと存じます。「たまたま門を叩いた教室の流派が○○流だった。」ということがよく見受けられますし、流派がどこであるかなど気になさらない方も中にはいらっしゃるかもしれません。
 しかし、どの流派で修道するかということは、一生ついてまわる大事な選択です。情報化社会の今日では昔よりも流派に関する情報が豊富にあり、幸いなことに前もって流派を吟味することができるようになりました。
 この頁では当スクールの流派である裏千家のなりたちに至る茶道の歴史をかいつまんでご紹介いたしました。流派選びにまちがいのないよう、役立てていただければ幸いです。

 
 
 
 



 
「茶経」を著した陸羽



伝説上の皇帝、神農

 茶のルーツは中国です。
 唐代(西暦800年頃)に、茶聖・陸羽が「茶経」を著し独自の茶道を確立しています。ただ、陸羽は自由人であり、お手前の様式化などは(故意に?)なされることはありませんでした。
 この「茶経」の中に「神農食經。茶茗久服。令人有力悦志。」とあり、「『神農食經』には茶を久しく服せば元気になり気分も良くなると書いてある」と述べられています。「神農食經」は紀元前2700年頃に著された書物と伝えられていますから、今から5千年前には茶の薬効は知られていたようです。また、漢代の「神農本草」や陶弘景(500年頃)によって復元編集された「神農本草經」のなかで「神農は百草を嘗めて、一日に72の毒にあい、一薬を得てこれを解毒する。」と説かれているのですが、唐代の659年に蘇敬らが「神農本草」の解説書である「新修本草」でその一薬とは「茗(ちゃ)」であることを明らかにし、「神農嘗百草,日遇七十二毒,得茶而解」の言い伝えとなりました。このことから、唐代には茶の薬効が宣伝されていたことがわかります。
 茶に関する最古の資料として、前漢の宣帝の時代の王褒が奴隷売買の契約書を基に著した「僮約(前59年)」という書物に、「武陽買荼(武陽で荼を買いなさい)」、「烹荼尽具(荼を煮る道具を整頓しなさい)」といった記載があり、後漢の頃には曹操の従医も務めた名医華佗も「食経」中で、やはり茶の薬効を謳っています。
 この頃の茶の飲み方は、団茶といい、茶の葉を蒸して茶臼に入れて搗き,それを団子のように丸く固めて保存したものを、喫む際に削っては器に入れ湯を注いでいたようです。
 なお、先の「茶経」は「茶者、南方之嘉木也(茶は中国南方の貴重な木である)」という有名な一文で始まることから、茶文化の発祥は中国・ミャンマー・タイの接する地方、北ベトナム、中国雲南省あたりであるというのが定説となっています。
 
 




聖武天皇陵
(佐保山南陵)




伝教大師最澄

 その、唐代の中国へと、日本から多くの遣唐使が派遣されました。
 いつ茶が最初に日本へ伝わったのかは定かではありませんが、奈良時代には遣唐使や中国・インドなどからの渡来僧が茶を輸入していたであろうと考えられています。茶について、文献に登場する最初の出来事は、天平元年(729年)に聖武天皇がおこなった行茶の儀です。一条兼良の「公事根源(1422年)」や大典禅師の「茶経詳説(1774年)」には、天皇が宮中に僧侶を召して般若経を講読せしめ,二日目に茶を賜ったとの記載されています。この茶が唐から輸入された団茶であったことは想像に難くありません。
 平安時代に入り、805年に伝教大師最澄が茶種を唐より持ち帰り比叡山の麓・坂本の地に植えたという伝説(「日吉社神道秘密記」)や、806年に弘法大師空海が中国から茶種や石うすを伝来したという謂れ(「弘法大師年譜」)があいつぎます。ただ、日吉の伝説は江戸時代に「古今要覧稿の草木部,茶の正誤」の中で屋代弘賢らが「何の証なく甚しきあやまりなれば,とり用いずといえり」と批判しており、大石貞男氏の「日本茶業発達史」でも「日吉の茶樹は,調査の結果中国種ではない」とされています。また、先の聖武天皇の行茶の儀にしても「公事根源」や「茶経詳説」が著されたのが数世紀もたってからであり、確証あるものではありません。
 実は、最初に正史に登場するのは、「日本後記」にある「815年に唐から帰朝した永忠が嵯峨天皇に滋賀里の梵釈寺で手自ら茶を煎じて奉御す」との記録です。栄忠が茶種を持ち帰った記録がないため、献じた茶が唐から持ち帰ったものなのか日本で採取された茶なのか定かではありませんが、これがきっかけで嵯峨天皇が畿内及び近江、丹波、播磨の諸国に茶園を造るように奨励され、公家や僧侶などの間に喫茶が広まりました。「経国集」「凌雲集」「文華秀麗集」などに当時の上流階級が茶を愉しんでいる詩が残されています。
 しかし、遣唐使が廃止されると、渡来文化の喫茶も下火となってゆきました。
 
 




臨済禅の祖、栄西


明恵上人樹上座図

 平安時代末期から鎌倉時代になると、宋代の中国との国交が再開されました。
 当時の中国では、唐代の団茶に成り代わって、碾茶(ひきちゃ)あるいは挽茶(ひきちゃ)と呼ばれた抹茶が主流となっており、匙でかき混ぜたり、茶筅やササラ状の竺副師という道具などで点てて飲んでいました。
 宋で茶とその飲み方を覚えた日本臨済宗の開祖栄西は、帰国した際に長崎の平戸に茶を植えたとされます。種子を播いたとも若木を植えたとも言われています。栄西が茶を持ち帰った意図は茶の薬効を法の功験とするためだったようで、「喫茶養生記」で五臓に対する茶の効用、栽培法、製法を説き、三代将軍源実朝が宿酔で苦しんでいる際に、一服の茶とこの喫茶養生記を献じたと「吾妻鏡」は伝えています。
 栄西禅師について禅をきわめた明慧上人は、同時に栄西から茶も学びました。明慧は奈良仏教の華厳宗を復興させた僧ですが、「明慧の茶十徳」を説く中で、座禅修行の妨げとなる睡魔を払う「覚睡気」の効用をとくに強調して喫茶を奨励したため、禅宗のみならず華厳宗その他の宗派にも茶は広まりました。
 同じく栄西に師事し後宋で修行した道元が喫茶、行茶、大座茶湯などの茶礼を制定するに至って儀式化され、ようやく禅宗において茶の作法らしきものができたのです。
 
 




淋汗茶の湯
 

 建仁寺を開くときに上京した栄西は、柿形の陶器に入れた5つの茶の実を明慧に贈りました。
 明慧上人が高山寺のある京都栂尾に植えたところ評判もよく、宇治に移植したのが今の宇治茶の始まりです。その後、「異制庭訓往来」に「我朝名山者以栂尾為第一也 仁和寺、醍醐、宇治、葉室、般若寺、神尾寺、是為輔佐  此外大和室尾、伊賀八島、伊勢八島、駿河清見、武蔵河越茶 皆是天下所皆言也 」とあるように全国の茶園に移植されていきました。本家となる栂尾の茶だけは特別に「本茶(ほんちゃ)」と称され、それ以外の地の茶は「本家栂尾の茶にあらず」という意味でたとえ宇治の茶でさえも「非茶(ひちゃ)」と呼ばれました。
 このころ、中国において、茶はその産地や茶を点てるのに使った水の種類を判別し合って勝負を決める「闘茶(とうちゃ)」という遊技となっていました。鎌倉時代後期、宋からこの「闘茶」が渡来し、南北朝時代の武家や公家などの上流階級の間でたいへん流行いたします。
 喫茶亭で行われた闘茶の様子は「喫茶往来」に克明に記されていますが、現在の「利き酒」のような「利き茶」であったようです。「闘茶」は賭け事であり、それが流行につながったのかも知れません。唐物趣味の三具足(花瓶、香炉、燭台)、掛物などで飾られた茶室には、点心(簡単な食事)や菓子(果物)とともに賞品である賭物が置かれ、茶の本非(ほんぴ)を判じて争いました。本非というのは先の「本茶」「非茶」の別で、要するに産地を当てる遊技であったわけです。なお、喫茶亭の主人は亭主と呼ばれ、後に茶会の主人役を指すようになりました。
 上流階級の豪華な闘茶会が盛んになるにつれ、それを真似た茶寄合が一般の間にも波及してゆきました。ただ、その豪華さや賭博性がエスカレートすることは少なからず社会に悪影響を及ぼしていたようで、1336年の「建武式目」には賭博に関する遊技の禁止が盛り込まれています。
 しかし、闘茶や茶寄合の流行は優良な茶を生産する必要性を生み、製造技術を向上させ、生産の増加によって茶が庶民に手の届くものとなると、立売茶(一服一銭茶)や寺の門前などに茶店が見受けられるようになります。ただ、優良な茶はなかなか市井には出回らず、それらの茶はすぐに点茶した泡が消えてしまうことから雲脚茶(うんきゃくちゃ)と揶揄されました。その後、茶の風俗も多彩化し、北山文化の頃には和風の優雅な闘茶が会所(喫茶亭の後身)で行われたり、本非を判じない茶事も公家の寄合で行われるようになりました。
 また、「経覚私要抄」や「祭礼草子」には淋汗茶の湯が催されている様子が残されています。これは、いけばなの前身である「立花」や「連歌会」を愉しみながら軽い入浴をし、その後に闘茶を行うというものです。あきれたことに男女混浴で賭け事の闘茶が寺院で行われ、それを見るために弁当持参でひとびとが集まったという記録もあり、とても「道」というにはほど遠い享楽であったようです。
 
 



 
真台子

 室町時代末期、東山文化の時代の茶は、書院茶と呼ばれます。
 当時、上流階級では高価な中国から舶来した道具を競い合うという鑑賞の茶(道具茶)が主流で、室町幕府の職制で阿弥号を持つ同朋衆、とりわけ茶事専門の茶同朋が茶器や茶道具の鑑定、飾り合わせなどを司りました。
 足利義満のコレクションを選別し「東山御物」を制定した能阿弥は、足利義教・義政の同朋衆を務めました。この頃には茶会の開催場所は従来の会所から書院へと移行しており、能阿弥は唐物を日本風の書院に飾りつける「書院飾り」を完成させ、仏に茶を献じる仏具である台子を茶事に使う「台子飾り」も考案します。書院茶の初期には点茶する場所と喫茶する場所が別である「点て出し」の作法だったものが、「台子飾り」の考案により、後に茶室での点前につながってゆくのです。
 道元から小笠原貞宗に伝えられた禅宗での日常茶飯の作法を手本に武家の礼法が作られましたが、このなかには茶の作法も含まれていました。能阿弥は越前朝倉家の家臣、中尾真能(さねよし)という武家で、柄杓の扱いに弓の操方を取り入れるなど武家の礼法を参酌したり、能の仕舞の足取りを道具を運ぶ際の歩行に取り入れて、書院茶の作法を完成させました。しかし、書院茶は依然「お作法」にすぎず精神性が重んじられることはなかったので、道具茶の域を出ることはなく、"道"としての昇華は村田珠光の登場を待たねばなりませんでした。
 
 




村田珠光



















 武野紹鷗

 奈良御門の村田杢市検校の子、村田珠光は十一歳で出家し称名寺の僧となりましたが、奈良流と称する闘茶の遊びに耽り、二十歳のころより出家の身を厭い寺役を怠ったために寺からも両親からも勘当され、二十五歳にして還俗しました。その後奈良から上洛し商人として財をなし、大徳寺の一休宗純に参禅して、茶禅一味の境地に至ります。茶禅一味とは、「仏法は茶の湯の中にあり」つまり、仏の教えは日常の生活の中にある、という平凡ですが尊い真理です。さらに珠光は儒教も加味し、ここに初めて茶の湯の中に精神性が盛り込まれ、儀式や作法を重んじる道具茶から、茶を学び行なう者の心を重視する"道"としてのわび茶が始まったのです。
 当時の茶は上流階級の書院茶と粗末な茶をすする地下茶の湯に二極化していましたが、珠光は能阿弥から学んだ書院茶に、地味で簡素な庶民の地下茶の湯の様式を取り入れました。後に「山上宗二記」に「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」とあらわされるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の神髄がみられます。そして、その神髄は亭主の客に対する心づくしの中でこそ体現されるとし、それまでの通俗的な茶を一新しました。
 能阿弥が十八畳の書院座敷を用いたのに対し、珠光は四畳半の茶室を考案しました。当初、広い座敷を屏風で囲って区切ったので、後に茶室は「かこい」と呼ばれます。茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを「限られた少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えたのでした。東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云われています。また、象牙や銀製でできた唐物の茶杓を竹の茶杓に替えたり、台子を真漆から木地の竹製に改めたりして、わびの精神を推し進めました。加えて、珠光は一休禅師から宋の圜悟禅師の墨蹟を印可の証として授かって以来、数寄屋の床の間には仏画や唐絵に代わって禅宗の墨蹟を掛けるのを決まりとしています。なお、同時代に著された書物の中には珠光の記録は一切なく、現代に伝えられている珠光像は利休より後の「山上宗二記」によるところです。

 その後、わび茶の理想が中途のまま、珠光は他界し、武野紹鷗がわび茶を完成させることになります。
 応仁の乱で京都が荒廃し、戦乱を避けた人々は自由都市堺の地へと集まっていきました。紹鷗も上洛し歌道を研究するかたわら藤田宗理、十四屋宗悟、宗陳など村田珠光の流れを継ぐ茶人について茶の湯を学んでいましたが、戦火を避け三十一歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鷗を号し茶の湯に専念します。
 わび茶の精神を端的に表しているものとして「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」 という藤原定家の歌を紹鷗はあげた、と「南坊録」の中で南坊宗啓は語っています。「侘ということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれ共、 ちかくは、正真に慎み深く、おごらぬさまを侘と云う。」と説き、茶道のわびとは「足らざることに満足し、慎み深く行動することである」としたのです。そして、珠光同様、茶室や茶道具の改革を行ない、藁屋根の四畳半に囲炉裏を切って茶堂とし、唐物の茶器から信楽、瀬戸、備前といった和風の茶器へとあらためました。
 このようにして、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った"道"に昇華し、「茶道」と呼ばれるようになりました。
 
 




茶聖、千利休 

 茶聖、千利休の生涯は、茶道の歴史の中で語るより、日本の歴史の中で語られるべきものでしょう。生涯を通じわび茶を改革し、茶道を天下のものとしたのみならず、その卓越した美意識は茶道を越えて後世の美術に影響を与え、わが国の陶芸や工芸の発達に大きく貢献いたしました。
 利休は幼名を田中与四郎といい、魚屋(ととや)として堺の納屋衆まで務めていた田中与兵衛の長男として生まれました。自由都市堺では武家支配がなされておらず、町人のリーダーが統治をしていました。それが納屋衆です。「千家系譜」「千利休由緒書」によると、利休の祖父は足利義政の同朋衆の職にあった田中千阿弥で、応仁の乱の戦火をのがれ堺の地に移り住んでいたそうです。
 わずか16歳にしてすでに”ひとかどの茶人”として堺の地で知られていた利休は、17歳の時に北向道陳に入門し書院茶を学び、その後道陳から武野紹鷗を紹介されるのですが、かねてから紹鷗も利休を認めていたようで、紹鷗の四畳半茶室の完成した際の披露目に、堺じゅうの茶人・著名人が「我こそ招待されるだろう」と期待していた中、招待されたのは利休ただひとりであったという逸話が伝えられています。利休は数日の猶予を請い、京都に走り法衣を整えてその茶会に臨み、紹鷗をおおいに満足させるのですが、この機に京都大徳寺の笑嶺和尚に参禅し、名を宗易と改め,姓も祖父田中千阿弥の千をとって千と名乗るようになったとされています。
 宗易と改めた利休は求道に励み名声をあげて、58歳のときに信長の茶頭となり、本能寺の変以降はあらためて秀吉の茶頭として三千石を与えられます。わび茶の心を「花をのみまつらむ人に山里の雪間の草の春 をみせばや(藤原定家)」とした利休のわびは、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮(定家)」と本来無一物を強調した隠遁的な紹鷗のわびに比べて、静けさの中にも活動力を潜めており、戦国の世に下克上の気風を求めた活動的な人々に支持されたのかもしれません。そして、秀吉が関白になったときに行なわれた禁中茶会においての後見を務める際に、町人から出た宗易を禁中にあげるために正親町天皇から勅賜された号が「利休居士」であり、ここに千利休が誕生いたします。
 後に家康に紹介する際に利休を「天下の名人」と評した秀吉の言葉は、「内々の儀は宗易(利休)、公事の儀は宰相(豊臣秀長)存じ候」という言葉を考え合わせると、「天下一の茶人」というよりももっと広く人間性として「天下一の傑物」という響きがあったのでしょう。秀吉は利休の精神性・人間性を政治的に利用し、諸大名への取次ぎや紛争の調停などを任じました。また、北野の大茶会は、わび茶という庶民感情を共鳴させるアイテムを使った人心掌握の大イベントでありました。茶会告知の高札には「特にわび者とあらば、誰々遠国の者にかかわらず、秀吉自ら茶を点てて下される。」と記され、実際、秀吉自身亭主として、803人にのぼる客に茶を点てるというパフォーマンスを行なっています。このようにして茶道は、戦乱の世においてすさんでいた武士たちや町人たちの心を融和し、世の中を安定させる役割を担うに至ったのです。
 しかし、世の中が安定すると秀吉にとってわび茶は不要のものとなったのか、北野大茶会を境に、秀吉と利休の関係は冷えてゆきます。その理由には諸説ありますが、秀吉の怒りをかった利休はとつぜん堺に蟄居を命じられ、秀吉に詫びを入れるべきだとの茶友たちからの忠告にも従わず、ふたたび京に呼び戻された利休は切腹を命じられ、七十歳にして自刃します。そののち、秀吉は大いに後悔し、利休の死後、かえって利休のわびを忠実に守ったそうです。
 わび茶の精神を極めた二畳の茶室、懐石料理の考案、楽茶碗の創出、高麗茶碗の採用など、新しい茶のため、その生涯に利休が改革した業績を数えるといとまがありません。しかし、下克上に通じる改革の志こそが利休の寿命をおびやかし、自らの死によって利休は「茶道」を完成させたのでした。
 
 



 
今日庵、兜門

 利休には二人の子供がいました。前妻との間の実子道庵と、後妻である宗恩の連れ子を養子とした少庵です。利休の自刃後、道安は飛騨の金森長近の許に、少庵は会津の蒲生氏郷の許に身を寄せましたが、徳川家康などの斡旋で、京都の本法寺前に土地を与えられ千家再興が認められました。嫡子の道庵は再び世に出ないと決めていましたので家督を継がず、その後、細川忠興の保護を受けています。結局、利休の娘亀をめとった少庵が利休の跡を継ぎ、不審庵や残月の間を建て千家の復興を図りました。
 利休の孫、宗旦は、利休の娘亀と少庵の間に生まれ、幼少の頃から大徳寺の春屋和尚の下に預けら れ禅の修業に励みました。一説には養子の身分であった少庵の気遣いで出家させたとも云われています。少庵が千家の復興をはじめた頃に環俗し、稀にみる教養の高い婦人であった祖母の宗恩から、茶道全般について教育を受け、少庵の隠居に際し三世を継ぎました。
 宗旦はわびの精神に徹した人で、利休の弟子の多くが自ら流派を興し大名茶や貴族の茶に走っていた中、本家三世として徳川家をはじめ様々な大名から茶頭として招きがあったにも関わらず、生涯、仕官いたしませんでした。幼い頃に禅の修業を積んだ宗旦には、「庶民の中に居てこそわびの精神が生まれる」との想いがあったのでありましょう。実際、千家再興の重責を担いながら定まった資のない宗旦の暮らしは相当苦しく「乞食宗旦」と呼ばれたほどでした。ただその一方で、次男一翁宗守を高松松平家に、三男江岑斎宗左を紀州徳川家に、四男仙叟宗室加賀前田家に仕官させ、千家存続を図った功績も、後世の人々から讃えられています。
 わび茶の精神を極限にまでつきつめた宗旦は、四畳半の茶室から無駄な畳をひとつひとつ取りのぞいてゆきました。そしてついに、一畳台目の茶室へと至ります。台目畳というのは、丸畳から台子の幅一尺四寸と屏風の厚さ一寸の計一尺五寸だけ切り取った畳で、一畳の四分の三の大きさです。茶の点前に必要な台目畳と、客が座るに必要な一畳だけにまで切り詰めた究極の茶室でありました。
 宗旦七十一歳の時、この茶室の披きに大徳寺の清厳和尚を招き、席名を「今日庵」といたしました。宗旦は、自分の茶を完成させるため、これまで起居していた「不審庵」を宗左に譲り、宗室とともに「今日庵」に移り住み隠居いたします。
 こうして、一畳台目の「今日庵」、利休四畳半を正しく再現した「又隠」、八畳書院の「寒雲亭」など由緒ある茶室を譲られた宗室の裏千家、「不審庵」を譲られた宗左の表千家が生まれました。表、裏の名は、「不審庵」が表に、「今日庵」が裏に位置していたことに由来します。ちなみに、次男の宗主は若くして家を出ていましたが、ふたりの弟が「家」を立てたことから自分も千姓に戻り、武者小路小川に「官休庵」を建て武者小路千家を興しました。かくして、世に言う三千家が生まれたのです。
 その後、歴史の波の中で決して平坦な道のりではありませんでしたが、裏千家は常に日本文化の牽引役としてゆるぎない地位を堅持してまいりました。今日では、裏千家は国際的茶道として大きく飛躍し、世界中からの人々が茶道を学んでいます。

 
     
   
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